稲川淳二の語る怪談は、すぐれて映像的である。
目を閉じてかれの語る怪異譚に聞き入っていると、この世のものではない存在が脳裏にまざまざと浮かんでくる。
稲川の擬音を多用した語り口、語る内容は多弁に流れず、ときに簡略にすぎるのだが、かえって言葉の少なさが引き金となって記憶のなかにある「霊」の姿や自分のかつての怖い体験などが蘇ってくるのだ。
稲川の話に耳を傾けながら、聞くひとそれぞれが異なる映像を思い浮かべているのではないだろうか。
自分の想像力で映像を<創る>のはとっても贅沢な娯楽である。
だから、本は手放せない。
それも、稲川淳二の語りのようにこちらの想像力、ときには妄想力を刺激する本がいい。
そのような本は、簡潔でとても抑制が効いている文体のもの、どちらかといえば硬質な文体のものが多い。
私が<映像的な文体>の最高峰と考えるのは、丸山健二であり、作品では「ときめきに死す」である。
丸山健二は「映画に負けない強烈なイメージを文章で語る」、文字でもって映像に対抗するのだと語っていた作家である。かれは小説作法を映画から学んで、物語を書くには「簡潔と抑制」こそが不可欠であるという結論に達したという。
「ときめきに死す」前後の丸山健二作品はとても刺激的で、<映像が楽しめる>文学である。
最近は多弁で過剰な描写なのに貧困なイメージしか生み出せない作家が多いような気がしてならない。
映像をおもな栄養にして成長した作家は、自分の内側にある「映像的イメージ」をほぼ垂れ流しにしているのではないかという気がする。
ドラマを見ながら、それを逐一書き取ったような小説。粗筋にせりふがくっついたような薄味の小説。
映像という語り方はとても親切である。なんでも絵と音で表わしてくれる。だから、こちらの想像力の余地も奪っていくのだ。
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