TVの空白を埋める者たち

TVというのは窓のようなもので、日頃、仕事をしながらラジオを聴く以外の時間、スイッチを入れて、どちらかというとくだらない番組を時々わき目をくれながら見ている。人間がくだらないので、くだらない番組が体質に合うのである。
そうやって斜めに見ていても、巷間言われるように番組の質がどんどん下がってきていることは良く分かる。
お笑い番組やバラエティ番組では、騒々しくて無教養であることを恥じず、世間話や内輪話をカネにする連中が幅を効かせている。そこでは人に聞き取れる日本語が話せるという以外の能力はとくに求められない。(ついでに言えば、放送禁止用語を言わなければなおいい)だから、出てくる人間は入れ替え可能だ。間を空けて見ていると、顔ぶれはどんどん変わっていく。入れ替わってもやっていることは同じだ。連中は「運のいい素人」でしかないのかも知れない。
「タダで見せてやってんだからいいじゃねえか。TV屋がそううそぶく声が聞こえそうだ。
TVカメラは、さして面白くない世間話や内輪話をただ垂れ流すだけだ。しかし、垂れ流しの映像では不安なのか、画面はしばしば字幕で覆われる。笑い声まで字幕になる。方言も、外人の話す日本語もギャグも言い間違えも字幕になって、画面を覆い尽くす。創り手たちは、映像と音で伝えるということを放棄しているようだ。だいいち、どこかで受けたからと皆こぞって真似をするなんて、TV屋にはプライドもないんだろう。創意工夫でおカネをもらうのが筋ではないのか。
でもTV屋は、人間が面白いんだよ、だから人間を映すのだなんて言うのだ。
無名の芸人の偽ドキュメント、 「進ぬ!電波少年」を見よ。
やらせからとうとう「疑似イベント」にまで突き進んでしまった。かつて筒井康隆が書いた「48億の妄想」「おれに関する噂」で予想してみせた世界に追いついたのである。
あれが先鋭化していった先は、人が死ぬことか、戦争を仕掛けるか、そういったところなのだ。
では、ニュース番組はどうか。ニュース番組は、時間が短すぎる。量が圧倒的に少ない。コメンテーターのくだらない感想など入れなくていいから、量を増やせと言いたい。と書いてもムダだ。連中は企業がらみのスキャンダルには追及の手は鈍る。ましてCMの出稿が多い企業ならなおさらだ。
では、スポーツ番組はどうだ。芸のない絶叫の連続と、退屈な解説はうんざりする。音楽関係の番組は「アーティスト」を自称する連中がこぞって格好つけて出てくる。こぞって同じ様なスタイルで、個性的であることを拒絶しているようだ。
しかし、何を見てもつまらない。
おりしも「衛星多チャンネル時代」である。何百チャンネルにも及ぶ放送が始まっている。映画はレンタルビデオ屋に取って代わる可能性はあるだろう。しかし、それ以外は、くだらない番組の数が増えることでしかないような気がする。しかも番組の制作費は(ほとんどの場合)お話にならないくらい安い。高い質など望めるのだろうか。
そもそも、いったい誰が見るのだろう。

まあ、TVなんて結局は企業広告を見せる動く看板である。広告の枠が埋まれば、それでいいのである。番組本体はおまけで売っているに過ぎない。そう思えば腹も立たないではないか。
TVは空白である。スイッチを切ってしまえば、TVはただ場所を取る箱だ。しかし、いったん何かが映し出されれば、利権が生まれる。利権のために空白ではないふりをしなければならない。かくて画面は空騒ぎで埋まる。
TVを見る我々も空白を内部に抱え込んでいて、それを埋めるためにTVのスイッチを入れる。そこに出てくる連中も人の姿をした空白でしかない。
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