SFを懐かしむ

 先日、本屋のカウンタで並んでいたら、おれの前のサラリーマンが「SFマガジン」を買っていた。正直なところ、あの雑誌を買う人を目のあたりにするというのが、驚きである。
 思えば、うんと昔、おれは「SFマガジン」を毎月買っていた。古本屋でバックナンバーを買い漁ってさえいた。四畳半の狭くて汚い部屋で、本棚代わりのカラーボックスに並べた「SFマガジン」の背表紙をながめては、なぜか満足していたものだ。
 本屋の平台に並ぶ新刊、ハヤカワ以外の文庫本売場をみてもSFはほとんどなくなってしまった。かつては日本人SF作家の作品を競って出していた角川も徳間も、SF関係の本がほとんど消えている。
 本屋に出かけても、おれがかつてよく読んだ作家の本は、ほとんど見当らない。読み返したいというSF小説があったとしても、新刊の本屋にはないのだ。
 贔屓にしていた山田正紀はミステリばかり発表するようになった。角川春樹事務所が「ハルキ文庫」で初期から中期の作品を再刊しはじめたのは幸いと言うべきかもしれない。また、「異星の人」の田中光二はほとんどが絶版だ。おれは初期の田中光二作品の、品格のある文章が大好きだった。かれの新刊は心霊に関係したモノだったり、架空戦記だったりで、もはやSFものはない。
 60年代の作家の本は、再刊相次ぐ小松左京や筒井康隆、星新一以外は、ほとんどない。80年代の作家はごく少数の作家を除いて、ほとんど入手できないようになってしまった。いや、小松左京の60年代、70年代の傑作も「ハルキ文庫」発刊まで、長い間入手できなかったくらいなのだ。
 市場原理から言えば、SFというレッテルは売れないと言うことなんだろう。山田正紀が発表したあるミステリ作品の解説に、我孫子竹丸というミステリ作家が「SF冬の時代」などと書いてあって、少しばかり寂しくなった。
 おれはSFが大好きだった。
 ものごころついた頃には手塚治虫、石森章太郎、横山光輝のSF漫画を読んでいた。アニメや、「ウルトラQ」に始まる数々の特撮ものも喜んで見た。でありながら、おれは怪獣映画をほとんど見ていない。幼稚園の頃、親父に映画館に連れていってもらった時、おれは発熱してしまって、わんわん泣いた。親父は俺をすぐに病院に連れていってくれた。ひどく怒って、それ以降、映画に連れていってくれなくなった。したがって、同じ世代の人間にありがちな「原体験としての怪獣映画」を共有しえないのだ。
 がきの頃、毎晩母に絵本を読んでもらったおかげで本を読むのが大好きで、H・G・ウエルズやヴェルヌに始まってSFをたくさん読んだ。市立の図書館や学校の図書館に行けば、「ジュブナイルSF選集」(正確なタイトルは失念した)やら「世界SF全集」などというものがずらり揃っていて、ほとんど読んだ。
 小学生だったおれにとっての「SFマガジン」はあこがれの本だった。いっぱい小説が載っていて、しかも垢抜けした表紙の絵や挿し絵が好きだった。しかし、とうてい手が出る値段ではなかった。
 中学の後半くらいからついに買い始めて、なめるようにして読んだ。手塚治虫の漫画、漫画版「新・幻魔大戦」、のちに「スタジオぬえ」の連載もわくわくしたものだった。読者欄に投稿をしたら、それが掲載されたこともあった。おれの投書を読んで手紙をくれた女の子と、文通などもしたものだ・・・。おまけに、可愛い女の子だった。
 やがて、使える金が少しばかり増えると、「奇想天外」だとか「SFアドベンチャー」なんかも買っていた。ほかにSFの新刊も買っていたのだが、どうやって金を工面したのか思い出せない。ただ、その頃の俺はやせぎすだったということしか覚えていない。いま思い返してみれば、SFにのめり込んでいた頃は、金もなく、欝屈ばかりしていた。
 ちょっと昔話を書こう。
 SFという文学は、長い間不遇なジャンルだった。文壇ではまともな扱いをされず、書評でも冷たい扱いを受け続けた。文壇というものには貴賎があるということは、筒井康隆や豊田有恒のエッセイでよくわかった。SFをあからさまに蔑む作家もいた。親はそんなくだらないものなんか読むなと言った。それでも、面白いモノは面白い。おれはのめり込んだ。今思えば、揺籃の時期だからこそ、SFには熱があったのではないかと思う。書き手は報われない位置にいるからこそ、必死に書き、読み手・受け手はだからこそ、必死にSFの本を探しては読み、サークルを作って語り合い、SFにのめり込んでいったはずだ。「運動体は、最初に頂点を迎える」というテーゼがあるが、これは当たっているのかもしれない。60年から70年代のSFファンはとても熱かった。
 しかし、1973年に小松左京が発表した「日本沈没」がベストセラーになったあたりから、SFというジャンルは注目を浴びていく。というよりも、おれのように漫画でSFの洗礼を浴びた世代がSFのマーケットを作り始めたのである。
 そして、映画「スターウォーズ」の公開、「未知との遭遇」、「ブレードランナー」、「エイリアン」などの傑作の相次ぐ公開で、SFは急激に一般化し、同時に文学としてのSFは岐路に立っていく。いや、岐路というよりも、おそらく、映像としてのSFが本流になって、活字のSFは傍流になって衰退しはじめたのだ。営業で骨身を削って業績拡大に貢献したにもかかわらず、時代の趨勢に合わず、窓際族になったエコノミック・アニマル(って、若い人はわかんねえだろうなあ)のごとく。
 たしか80年ころだと思う。
 筒井康隆は、SFのブームを指して「SFの浸透と拡散」が始まったと評した。また、「SFとはジャンルではなく、ものの見方である」とも指摘した。これからは活字ではなく、漫画や映像で優れたSFが出てくるだろうと予想した。
 この言葉は実にそのとおりになった。文字でもって映像に拮抗しうる表現はごくわずかしか生まれなかったのだ。
 おれはごく限られた作家以外のSFを読まなくなった。山田正紀以降に登場した日本のSF作家にはどうにも乗れなかった。すっかり熱が引いて、冷めてしまったのだ。それで、海外のSFものにも関心が持てなくなってしまった。
 それにかわって、ノンフィクションと、海外のサスペンスと、のちに「ジャンルミックス」と呼ばれることになる、スティーブン・キングやD・R・クーンツや、ロバート・マキャモンを好んで読みはじめた。それらの面白さに、浸透して拡散したSFは、より美味な果実をはぐくんだのだと思った。
 「ジャンルミックス」は、日本にも波及していく。面白さを追求した小説を受け入れる土壌ができあがっていったのだ。
 純SFとジャンル・ミックスを別々に扱うのはおかしい話だが、SF作家を名乗る人の本はなんだか元気がなくて、立ち読みしても、レジまで持っていこうという気になれない。純SFは、かつてSF側の人間が罵倒した純文学みたいに、古くさくて面白みがなくなったのだ。
 「SFだから読む」というのは、明らかに歪んでいる。しかし、ある時期までの私はそれをしていた。
 小説のジャンル分けなど、意味はない。面白いか、面白くないかだけだ。

 今や、本屋の平台にSFが載る機会はめっきり減ってしまった。その一方で新書の「ノベルズ本」コーナーとがき向け文庫のコーナーにはアニメ絵の挿し絵がついたSF臭のする本が大量に並んでいる。そんな本を手にとって数ページを斜め読みしても買ってまで読む気になれず、とうとう近付きもしなくなった。もしかして傑作を見落としているかもしれないが、アニメを文字で採録したような本は読むのがつらいのだった。
 おれは、SFを読んで、頭のなかで絵にするのが好きだった。だけど、ある時から、絵が思い浮かばないSFばかりになった。想像力を刺激する、いい文章というものが他にもたくさんあるということにやっと気が付いたのかもしれない。
 今では純文学でもエンタテインメントでもSF的な要素を入れるのはごく当たり前になった。SFの優れた成果は、SF作家以外の作品に多くを見いだせる時代になってしまった。
 そういった、拡散して様変わりしたSFを、おれは大いに楽しむことにした。
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